今回はシニア2人でハイキングをしました。しかし、この日は天気予報でも猛暑が伝えられ熱中症注意報が出ていました。そのため、2人とも、妻から「スマホと健康保険証」の携帯を義務付けられて出発しました。こんな暑い日は登山者はいないだろうと思っていたら数人の登山者と出会いました。「暑いですね」と声をかけたら「暑いから来るんだよ」と言われ、何となく納得しました。
暑さで肉体の疲労感が一層増大した気がしたのは否めないのですが、その分、青空の広がる快晴の下で見る景色はとても素晴らしいものでした。
約17,000歩歩き、下山後のアイスクリームは格別においしかったです。

ハイキングコース

今回は光鏡院の登山口から歩き始めました。途中、瀬名古墳群を確認し分岐点から赤色のコースに進むのですが、今日は体力を消耗させないために緩やかな青色コースを歩くこととしました。
赤色のコースならば20分程度で梶原山に到着します。距離では2倍以上の青色コースを選択したため、分岐点から1時間(3倍)を要してしまいました。
梶原山公園で一休みした後、帆掛山(一本松公園)で三角点を確認し帰途につきました。いつもでしたら、霊山寺まで行くのですが、今日は暑いのでやめました。

出発点の光鏡院は駐車ができませんので、先に駐車場所を決めてから出かけるのがよいでしょう。光鏡院のすぐ横に「梶原一族いくさの跡」と記したハイキングコースの案内板があります。この案内板でハイキング場所の歴史を学ぶことができます。

光鏡院
案内板

光鏡院は、今川陸奥守一秀の菩提寺で、長亨2年(1488)僧・慧雲が開山した曹洞宗の寺ある。文明8年(1476)今川六代当主義忠が不慮の死をとげ、今川一族の間で竜王丸(今川氏親)派と小鹿範満派に分れて争いが起ると、一秀は竜王丸を補佐するため遠江から瀬名に移り住み、瀬名氏と改名した。以来、一秀は瀬名一族の祖となった。通称「瀬名館」といわれる字大屋敷は、瀬名集落のほぼ中央にあって、瀬名一秀を祖として氏貞、氏俊、氏詮四代の居館跡であったことが「今川記」に記されている。今日、遺構は認められないが、今川直系を補佐する一族として瀬名氏の勢力は大きかった。瀬名砦の所在は不明であるが、光鏡院の裏山と考えられ、永録11年(1568)武田信玄の駿河侵攻の際に落城したことが記録にみられる。(光鏡院ホームページより)

光鏡院から登り始めてしばらくすると右手に「瀬名古墳群」と書かれた大きな看板があります。5世紀~7世紀代まで西奈地区を納めた豪族の墓と考えられ、前方後円墳3基、円墳3基、方墳1基以上で構成されている、と記されています。しかし、付近に古墳は見当たらず、横穴式石室に使用された石らしきものがありました。昭和60年に発掘調査があり、1辺12mの横穴式石室が発見され、大刀や金環などの副葬品も見つかったそうです。

瀬名古墳群の大きな看板はあるのに、付近に何もない理由をもう少し丁寧書いておいてほしいなと思いながら進んでいくと分岐点に出ます。指示された右の道を行くと少し急な山道になるので今日はだらだらと左の道を進みました。

梶原一族いくさの跡

<梶原一族について>(光鏡院の横の案内板に記されている内容)
治承4年(1180)、源頼朝は、平家討伐の旗あげをしたが、相模(神奈川県)の石橋山で敗れ、洞穴に隠れていた。そこを平家方の将で、大庭景親に従っていた梶原景時が密かに助けた話しは有名である。
景時は、その後、頼朝に仕え平家追討や鎌倉幕府の創立に功をたてたが、頼朝没後の勢力争いに敗れた。
正治2年(1200)一族と共に西国の所領に向かう途中、駿河国、清見ヶ関から大内(清水区)あたりで鎌倉の命を受けたこの地の国侍の待ち伏せに遭い、戦いとなったが利あらず、梶原山に逃れ、一族共に自害して果てた。
梶原山の山頂には、梶原親子を供養した塚があり、地元では梶原塚という名でも親しまれている。
梶原景時 辞世
 もののふの 覚悟もかかる 時にこそ こころの知らぬ 名のみ惜しけれ

鬢水(びんすい)
この岩の間からは。鮮烈な水が滾々と湧き出し、厳冬でも枯れることがなかったと言われている。
すでに覚悟を決めていた梶原景時たちは、岩間の水を両の掌に受けて顔を洗い、喉を潤した。そして水鏡にうつして鬢のほつれを直して身を整え自刃(じじん)の地である山上を目指したので、この岩間の水を「鬢水」または「鬢洗いの水」と呼ぶようになったという。
梶原山の伝承(1)梶原会

駒食い笹(こまくいささ)
人も馬も、疲れ果てて山中をさまよったので、梶原景時の乗馬「磨墨(するすみ)」は、空腹のあまり傍らの笹の葉を食いちぎった。すると笹の葉に「矢筈(やはず)」のような「磨墨」の歯形がつき、以来この地の笹は、葉先が歯形のように枯れたので、人々はこれを「駒食い笹」と呼ぶようになった。ちなみに梶原氏の家紋には「矢筈」が使われている。
梶原山の伝承(2)梶原会

馬上後ろ向きに自刃の山へ登る 
梶原景時たちは、戦いつづけて大内、鳥坂と過ぎ、さらに狐ヶ崎(静岡市曲金附近)に進んだが、すでに後につづく味方の姿は無く、今来た道を引き返してきた。この”夕日無し山”(大内側から見た梶原山の名)へは、馬の足跡をくらますために、馬を後向きにして登ったという話が伝えられている。 
梶原山の伝承(3)梶原会

梶原景時終焉の地 碑と供養塔
碑裏側の説明

梶原山からの景色は、静岡市全体を眺めることができ、一枚の写真に収めることはできず、上の写真が清水側で下の写真が静岡側です。

葵区側の梶原山公園から尾根伝いに進むと清水区側の一本松公園(帆掛山)に到着します。標高304.30mの三角点と柱石があります。

当時の写真

一本松公園の一本松は帆掛山の頂上にあった松の大木で、清水港に入る漁船が目印にするほど遠くから見えたため一本松と言われていました。昭和5年当時の一本松の写真が左のものです。ただ、ある時期に枯れてしまったとのことで、現在は残念ながら残っていません。

今回は一本松公園で休憩を取り帰途につきましたが、以前ハイキングしたときは霊山寺まで行ってきました。その写真も掲載します。霊山寺へは案内板があるので、すぐわかります。

霊山寺は一本松公園を10分ほど下った山の中腹にあります。地元では「大内観音」、「雨乞観音」として親しまれています。仁王門(国指定重要文化財)は、1516年2月に建立されたもので、柱は、中央に膨らみを持たせ上部がやや細くしています。また通路上部の蟇股(かえるまた)は、日本に三つしかないといわれています。

仁王の力石
坂を登って疲れたとき、この足跡を踏むと不思議に足の疲れが直ったものです。力強い仁王様の足跡というので、これを踏むと足が丈夫になるといわれています。
(高部地区まちづくり推進事業協議会)