満観峰へのハイキングコースはいくつかありますが、宇津ノ谷峠~満観峰のコースは急なアップダウンがあって、ハァーハァーと息をしながら登ります。その分くだりも膝を痛めないようにポールを利用して下ります。このアップダウンが3回あり、正直きついです。しかし、3年前にも同じコースで登った時にはこれほどきつくは感じなかったのですが、やはり足が弱ってきたのかもしれません。
もう少し楽に満観峰に登るには花沢の里からのピストンがお勧めです。
帰りに蔦の細道を通って帰りましたが、満観峰に行かずに道の駅~宇津ノ谷峠~蔦の細道のコースはレベル2程度です。道の駅~宇津ノ谷峠までは多少きついですが、そこから蔦の細道で岡部に下りて明治のトンネルなど歴史を感じながらのんびりと歩くにはよいコースです。

道の駅に車を止めて宇津ノ谷峠に向かいます。道の駅は食事をするお客が来るので、長時間の駐車をしないように看板が立てられています。ハイカーは川沿いにある道に止めるようにします。道の駅の端に宇津ノ谷峠越えの看板があるので、そこから登っていきます。

道の駅
登り口

道の駅を出発して20分くらいで宇津ノ谷峠に着きます。ここまでは少しきつい坂道になっています。到着すると満観峰への看板と反対に岡部口への看板があります。今回はここから満観峰へピストンで往復し、帰りに岡部口(蔦の細道~明治のトンネル)方向で帰ることとしました。

宇津ノ谷峠に写真のような石碑があります。
「駿河なる 宇津の山べの うつつにも 夢にも人に逢はぬなりけり」
この和歌は、『伊勢物語』の有名な東下りの第九段の歌として載っているもので、教科書でも見た覚えがあります。
意味は 
私は今駿河の国にある宇津の山(宇津ノ谷峠)のほとりに来ていますが、現実にお会い出来ないのはもちろん、夢の中でさえもお会いすることが出来ません。(あなたはもう、私を思ってくださらないのですね)
当時は、相手が思っていてくれる時は、その姿が夢に出ると信じられていた。「夢にも人に逢はぬ」は、その人がすでに自分のことを思っていないのではと嘆いているのです。 

宇津ノ谷峠から満観峰へ行くコースは結構急こう配が多くきついです。膝を痛めそうな人はこのコースはやめた方がよいかも知れません。ともかく、道すがら景色を見て進むコースではなく、暗い山道を進んでいくような感じです。宇津ノ谷峠から1時間半~2時間くらいで満観峰に到着します。

きつい登り道
満観峰470m
満観峰広場
山頂から

満観峰で昼食を食べ、ゆっくり休んだら元来た道で宇津ノ谷峠まで戻ります。ここから道の駅の登り口に行くのではなく、岡部口に向かい、蔦の細道から明治のトンネルのコースで帰ります。

蔦の細道は、「宇津の山越え」とよばれた道で7世紀の律令時代には伝馬の道として使われた。古代駅路の東海道は、海岸近くの日本坂を越えるルートだったと考えられており、宇津ノ谷峠を越える道は、中世から近世の東海道として継承されるまで、古代の伝路として機能していたとされている。 
よく知られるようになったのは、平安時代前期の文学作品「伊勢物語」が書かれたときからである。在原業平をモデルにしたとされる主人公は、宇津の山に入ろうとしたとき、暗く細く、ツタやカエデが茂り、寂しい道に心細く思った。その時見知った修行者に会ったので、京にいる人に「駿河なる宇津の山べのうつつにも 夢にも人にあはぬなりけり」と記した手紙をことづけた。「蔦の細道」とよばれるようになったのは江戸時代からで、この業平の逸話から名付けられたと考えられている。
出展:wikipedia

蔦の細道

宇津ノ谷峠にある4本のトンネルの中で最も古いトンネルとして知られる「明治トンネル」。
趣のあるレンガ造りのトンネルは、明治時代のレトロな雰囲気を感じることができるスポットとして人気を集めています。
実は現在の「明治トンネル」は、宇津ノ谷峠に最初に掘られたトンネルを明治37(1904)年に修築したもので、修築前は、今とは少し姿の異なるトンネルが存在していました。
最初のトンネルが完成したのは、明治9(1876)年。岡部宿と丸子宿の有力者7人で結成された結社(現在の会社組織)により、約2年の歳月と延べ15万もの人員をかけ造られたものでした。記録によると、長さ223m、幅5.4m、高さ3.6mで、静岡側の出入り口は青石という固い石をアーチ状に積み上げた石造り、藤枝側の出入り口からトンネル内部にかけては材木を組んだ合掌枠で造られていました。
そして最も特徴的なのが、トンネルの中央部分がくの字型に曲がっていたこと。
くの字に曲がった理由が意図的なものだったのか、測量や工事技術の限界によるズレなのかは定かではありませんが、難所といわれた峠にトンネルが開通したことは、とても画期的なことであったに違いありません。
このトンネルのもう1つの特徴は、建設費用を返済するために通行料の徴収を許可された日本で初めての「有料トンネル」であったということ。施工から経営まで民間事業者により行われたことも、当時としては革新的なことだったようです。 
最初に造られたくの字型のトンネルは、明治29(1896)年に起きたトンネル火災(明治32年との説もあり)で通行不能となってしまいました。その後、明治37(1904)年にトンネルの修築工事が行われた際、静岡側の出入り口の場所をずらしてまっすぐな形状に造り直し、トンネル内部もレンガで覆う改良が施され、現在の明治トンネルの形状に生まれ変わりました。
残念ながら、現在は開削当初のトンネルの姿を見ることはできませんが、藤枝側の入口脇に見られる岩盤やトンネルに続く曲がりくねった道に、往時のトンネルの姿を重ね見ることができます。今はなき幻のくの字型のトンネルを想像しながら散策してみるのも楽しそうですね。
出展:藤枝市スポーツ文化観光部 街道・文化課

明治のトンネルを通ってしばらく行くと、江戸時代の町並みの風情が残る宇津ノ谷集落があります。集落にある各世帯にはそれぞれ昔ながらの屋号が付けられています。「くるまや」さん、「寿べや」さんなど、昔からの職業などが元になっています。その中で、石川家は、天正18(1590)年に豊臣秀吉が北条征伐の帰途に立ち寄り、羽織を与えたことから、『お羽織屋』と呼ばれはじめて後に徳川家康も訪れ、記念に茶碗を残した。羽織は、市の文化財に指定されています。

宇津ノ谷「御羽織屋」さん語り部のはなし